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コラム⑧旅コラム-《船弁慶》編- | ペコ丸の古典芸能用語集

明けましておめでとうございます。ペコ丸です。いよいよ公演も直前になってきました。
今回は、いよいよ平家終焉の地、壇ノ浦までやってきました。京都から出発しましたが、とても、遠かったです。


山口県下関市にある壇ノ浦古戦場址


みもすそ川公園/山口県下関市みもすそ川町にある石碑

今回のコラムのタイトルに挙げている《船弁慶》の本来の舞台は、壇ノ浦ではなく、摂津(兵庫県尼崎市)にある大物浦です。物語では、頼朝に疑惑を持たれ、鎌倉方から追われる身となった義経は、弁慶らとともに西国へ逃れようと、摂津の国の大物浦へ到着します。そこで愛妾の静御前と別れることになります。義経との別れを悲しむ静御前ですが、義経の為、別れの酒宴で舞い、涙に暮れながら見送ります。 静と別れ、船出した一行を嵐が襲います。波間より現れたのは平家一門、平知盛の亡霊でした。平知盛は一行に激しく襲いかかり、義経を海に沈めようとしますが、弁慶が経文を唱えます。その法力によって、亡霊たちは再び海へと消えていくのです。

義経が西国へ逃れようとした際、嵐にあい、行く手を遮られたという記述は、『平家物語』『源平盛衰記』『義経記』など様々な軍記物で見ることができます。そして、嵐は平家の怨念によるものだと噂されたことが、知盛の亡霊の物語を生み出していったのだと思います。これら伝説は、様々な作品にもなっています。

https://artsandculture.google.com/asset/yoshitsune-see-the-ghost-of-taira-tomomori-utagawa-yoshikazu/UQHg7cc7juXaFQ?hl=ja
摂州大物浦平家怨霊あらわる図(葛飾北為)

ですが、なぜ平家を代表する亡霊が、知盛だったのでしょうか?平家の総大将は宗盛でした。また、壇ノ浦では多くの武将が亡くなっています。例えば、有名なのは、最後まであがき、源氏の武士3人を道連れに海中深く沈んでいったのは教経です。一方、知盛は、敵に見苦しいところを見せてはならないと海面に残される運命の船を掃除し、味方が海へ沈んでいく様子も含め、戦いを最後まで見届けます。そして「見るべきものは見た」と言い残し、決して浮かび上がらないよう(いかり)をかつぎ、自ら海に沈んでいくのです。


山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮内にある平家一門の墓(壇ノ浦にて戦死の一門)


みもすそ川公園/山口県下関市みもすそ川町にある像(左側:源義経 右側:平知盛)

平家の多くの武将は、栄華からの転落を嘆き、恨みをいだいて亡くなっていったと想像できます。ですが、「見るべきものは見た」という言葉からも、知盛自身は運命を受け入れて死んでいったように僕には思えるのです。

昔の人たちは、知盛の死に様に魅了され、想像を膨らませたようです。《船弁慶》での亡霊となり船上の義経を襲う設定もそうですが、例えば、浄瑠璃《義経千本桜》の二段目「渡海屋」「大物浦」の段(通称 歌舞伎の《碇知盛》)では、死んだはずの知盛が実は生きていて、亡霊を装って義経一行を襲うという設定がされています。何百年も年月を経ながらも、様々な形で壇ノ浦の合戦の様が「再現」されることから分かるように、彼の生き様、そして死に様が人の心を捉え、義経との戦いや、最後の入水の場面を観たいと思わせているのだと思います。どの物語においても、知盛は、最後は必ず負けるのですが、その散り際の無常さが美しくもあり、魅力なのかもしれません。

そして、《船弁慶》のもう一人の主人公静御前も、義経との別れを「再現」しています。本当は義経についていきたいが、その想いを断ち切り、泣きながらも白拍子として気丈に舞を見せる様は、やはり人々の胸に訴えたに違いありません。

静と知盛の、女性と男性、生と死、静と動と相反する存在でありながら、義経に対する情念を燃やしながらも、悲劇の運命を受け入れざるをえない様が、《船弁慶》という物語の中で、同じテーマを思わせます。そして、義経にも悲劇の未来が待っています。能では子どもが義経を演じるのですが、20代後半の義経をあえて子方が演じることで、義経の力がその未来に対し、(はかな)く非力であることが強調されているように思われるのです。

主人公は知盛と静でありながら、なぜ、曲名を《船弁慶》というのかについても不思議です。それについては、僕も考えていることがありますが、それはまたいつか、機会があればお話しできればと思います。

それでは新春公演を、どうぞ楽しんでください。

ペコ丸(代筆:平山聡子)

コラム⑦旅コラム-《橋弁慶》編-

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