コラム⑦旅コラム-《橋弁慶》編- | ペコ丸の古典芸能よもやま話
京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く 前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった
こんにちは。ペコ丸です。すっかり寒くなりましたが、皆さんいかがお過ごしですか。南国メキシコ産の僕には京都の底冷えは大変厳しく、服を着ないと風邪をひいてしまいます。
さて、僕は、今日は京都の五条大橋に来ています。後ろにあるのは弁慶と牛若丸の像です。冒頭にあげた橋弁慶の舞台として有名ですが、実は、当時の五条大橋は、現在の松原橋とされています。
というわけで、松原橋にもやって来ました。弁慶と牛若丸こと源義経の出会いにまつわる有名な話は、千本の刀を集めるために夜な夜な五条の橋で刀を持った人を襲っていた弁慶が、あと一本に迫った夜、笛を吹く牛若に出会い、手玉に取られて降参し、家来になるというものですが、能《橋弁慶》では逆に、牛若が人斬りで、弁慶に襲いかかる設定にされています。
美形で少年の牛若丸が、見るからに強そうな大男の悪行を懲らしめるからこそ、牛若丸の正義や強さが際立つのに、能では牛若丸が暴れる側とは驚きです。しかし、史実の牛若丸は、平清盛に命を助けられ、仏門に入る為に京都鞍馬寺に預けられたものの、大変な暴れん坊だったそうです。寺の本尊の毘沙門天が帯びる剣を欲しがったり、同じく近くの寺で修行している児とともに、京に出て集団を作り、辻冠者原と呼ばれる京にいるあぶれ者に斬りかかったり追い回したりと、平安末期の不良少年だったようです。『源平盛衰記』にも「学文などせんと云事なし。只武勇を好て、弓箭、太刀、刀、飛越、力態などして、谷峰を走、児共若輩招集て、碁讐六隙なかりければ」という記述が残っています。そのような意味では、能の《橋弁慶》での牛若丸の設定の方が正しいと言えるかもしれません。
さて、幼少期に夜な夜な寺を抜け出し、鞍馬山から貴船社にかけて、天狗相手に武者修行をしていたという伝説をもつ牛若丸ですが、その痕跡も鞍馬山のいたるところに残っていました。例えば、下の写真は、牛若丸が跳躍の修行をしたと言われる、鞍馬山の木の根道です。歩くだけでも大変そうです。僕にとっても、いい跳躍修行の場になりました。
ところで、僕が気にかかっているのは、弁慶がなぜここまで有名になったのか、ということです。実は弁慶は、戦いにおいてそれらしい活躍は残していません。『平家物語』や『源平盛衰記』でも、ほとんど弁慶の名前は出てきません。『平家物語』では木曾義仲との合戦時には弁慶の名前は出てこず、一の谷の合戦で、初めて名前が登場します。その為、木曾合戦後に義経の従者になったのでは、と記述している文献もあります。
ただ、義経に最後まで付き従ったのは事実のようです。義経が悲劇のヒーローであるイメージを定着させるとともに、弁慶の登場から死に至るまでも印象深く描き、彼の存在を一躍有名にしたのは『義経記』です。物語上、義経の悲劇の生涯を語る上で、数々のエピソードを共にする家来が必要で、弁慶がクローズアップされたのかもしれません。因みに冒頭の唱歌「牛若丸」に見られる、弁慶を武芸で遣り込める牛若丸の像も『義経記』が原型と思われます。『義経記』は室町時代前期(14世紀頃)に成立したと想定されています。一方《橋弁慶》の初見は16世紀初頭だそうです。
義経を悲劇のヒーローに描く『義経記』よりも後の創作にも関わらず、牛若丸の暴れっぷりを観ることができる《橋弁慶》は、史実に近い義経幼少期の性質を垣間見せてくれる、面白い視点で描かれた作品だと僕は思います。
ペコ丸(代筆:平山聡子)