コラム⑤旅コラム-《那須の語り》編- | ペコ丸の古典芸能よもやま話
こんにちは。チワワのペコ丸です。僕は今、「源平芸能絵巻「赤と白と」~時代を彩った其々の人間模様~」に登場する人物が戦い、歴史に痕を残した場所を巡り、旅をしています。
今回は香川県高松市屋島に来ました。屋島と言えば屋島合戦の舞台であり、那須与一が登場する『平家物語』「扇の的」の場面で非常に有名です。
今回も、まず最初に、少しだけ『平家物語』の「扇の的」の場面をおさらいしたいと思います。
夕方になり戦いも一段落し、源平両軍が互いに退き始めた頃、女房を乗せた平家の小舟が、竿の先に紅色の地に日輪を描いた扇を立てて現れます。扇を矢で射抜いてみよ、と言うのです。義経は那須与一に扇を打ち落とせと命じますが、与一は「射損じたならば、お味方の弓矢の長き恥となります」と断ります。しかし、義経の怒りにふれ、止む無く引き受けることとなり、与一は決死の覚悟でのぞみます。馬を海の中へ入れ、1段(約11メートル)ほど進みますが、なお、扇までの距離は7段(約77メートル)ほどあります。「南無八幡大菩薩、さらに、わが生国・下野の神明・日光権現、宇都宮、那須温泉大明神よ、願わくば、あの扇の真ん中を射させたまえ。」と祈り、見事射落とします。これを見て、平家は船端を、源氏は箙をたたいて褒め称えるのでした。
「扇の的」の場面は、滋賀県立琵琶湖博物館のHPからもご確認いただけます。紙本金地着色 源平合戦図 狩野氏信筆6曲1双のうち、左隻に「扇の的」の場面が描かれています。HPでは下の方の写真がそれです。クリックすると拡大できますので、ご覧ください。
http://www.biwakobunkakan.jp/db/db_01/db_01_068.html
さて、僕は、今、屋島の頂上から源平屋島合戦古戦場を見ています。
「扇の的」の舞台となったのは、すぐ上の写真の赤で囲った辺りです。現在は埋め立てられて、海ではなく川のようになっていますが、当時、屋島は島で、この場所の幅はもっと広かったのです。次の源平屋島合戦史跡案内図の中に、海だった場所を赤枠で囲んでみました。
ところで、約77メートルもの距離の先にある扇を、波のある海の中からどのように射ったのでしょうか?その答えが、次の写真の駒立岩です。与一は、この岩のところまで馬を進め、岩で馬の脚を固定させたようです。なるほど。これなら、馬の脚も安定しそうですし、納得です。扇の的の場面を描いた絵では、ほとんどが海の中に那須与一の馬がいて、この岩は海中にあるのか、見えません。現在でも引き潮の時のみ、この岩は姿を見せるそうですので、与一が矢を射たのは、満ち潮のときだったということになります。あるいは、絵の構図として岩を見せない方が那須与一のかっこよさを際立たせるので、敢えてそのような描写になっているのかもしれません。実際にはどちらなのか、少し調べただけではわかりませんでしたが、大変興味深いところです。
そして、扇までの7段(約77メートル)という距離ですが、これはかなりの距離です。扇の位置は、「駒立岩」の看板には現在の水門の方角と記載されており、分かり易いように、そこに扇の絵が描かれています。写真の奥に見えているのがそうです(拡大図も載せておきます)。写真でも分かると思いますが、実際に見てみてもかなり遠く感じました。因みに、扇の絵が描かれている看板までの距離はgoogle mapで長さを測ってみると50メートル程度でしたので、実際にはさらに遠い距離ということになります。遠いですね!僕ならそのような無謀な依頼は断りたいです。
そして実際に、義経から扇を射落とすようとの命令に、与一の前に2人が断わり、与一も断っています。ですが義経の怒りに、与一はそれ以上断ることができなくなり「これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。」と決死の覚悟で臨むことになります。与一の正確な年齢は分かっていませんが、屋島合戦当時17歳という記述(『群書類従』)があります。先のコラムに書いた平敦盛といい、高校生くらいの人たちが常に死を覚悟しなければならなかったことに、驚きを隠せません。
最後に、海の中から77メートル先の扇を一発で射落とすことが、どのくらい難しかったかを試した実験の紹介をします。以下は『図説・日本武器集成』(学習研究社)を参照しています。
那須与一と同年代の3人の射手によって、実際に扇の的を射当てるのは可能なのかという実験が行われています。場所は神奈川県の森戸海岸、射手の3人は全日本遠的競技会の優勝経験者です。実験は、射手が海岸に立った状態で遠的用の矢を使用して行われました。扇までの距離は、遠的競技の射的距離である60メートルに設定され、舟に立てられた舟竿の高さは3メートルと仮定して、その先端に的が立てられました。那須与一は馬上で海の中から射当てており、的までの距離も77メートルとさらに遠いですから、かなり有利な条件での実験となっています。的となる扇は直径52センチで、3人の射手が5本ずつの矢を引き各々の射当てることができるか試みられました。
結果、15本中1本が、的を捉らえました。この実験と他にも同様の実験を行っており、扇の的を射当てる確率は20%前後と推測されています。細かい条件は異なりますし、使用された弓矢の精度も、当時と現代とは異なるかと思いますので、単純な比較はできませんが、扇の的を射抜くのは不可能とは言えないものの、非常に難しかったであろうことがわかります。
ただの余興ではなく、扇を射当てなければ、源氏に平氏は倒せないという意味になるのですから、敵味方の大将を含め、全軍が固唾をのんで見守る中、17歳の少年に課せられたプレッシャーは相当なものだったと思われます。那須与一が一発で的中させたのは、まさに神がかり的な光景だったことと思います。敵方の平氏でさえ思わず踊りだす者が出るのも当然と言えるでしょう。
狂言《那須の語り》の緊張感、そして臨場感が、僕は大好きです。皆さんも、当時の名場面が、現在によみがえる様子をご堪能ください。
ペコ丸(代筆:平山聡子)