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コラム④旅コラムー《須磨の嵐》編ー | ペコ丸の古典芸能よもやま話

こんにちは。チワワのペコ丸です。ここから源平合戦の舞台となった場所を、旅してみたいと思います。今回は、箏曲《須磨の嵐》の舞台となった兵庫県須磨市を、当時の合戦の様子を振り返りながら巡ってみました。

寿永3年(1184)2月7日に摂津国福原および須磨で源平合戦が行われました。俗に言う「一ノ谷の戦い」です。
下の写真は、須磨浦公園の展望台から見た一ノ谷です。今を去ること約800年前、眼下のこの平地に陣を構えていた平家に対し、義経が世にも名高い奇襲「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」を敢行しました。思いもよらぬ山側からの奇襲により平家は狼狽し、海へと敗走します。その際に、多くの平家の武将が命を落としました。箏曲《須磨の嵐》の平敦盛、邦楽・舞踊《花二題》の平忠度(たいらのただのり)達がそうです。


神戸市須磨区 須磨浦公園 鉢伏山山頂の展望台からの景色

「鵯越の逆落とし」の鵯越の場所については諸説ありますが、『平家物語』覚一本(かくいちぼん)には「一ノ谷のうしろ鵯越」と記載されており、一ノ谷背後の鉢伏山はちぶせやま鉄拐山てっかいさんというのが有力な説の1つです。
僕は今まさに鉢伏山山頂に居ます。

ただ、僕には、この山道を、義経の馬のように駆け降りることができなさそうでしたので、ロープウェイで下りることにしました。
次の写真はロープウェイからの眺めですが、源氏軍が、この山の斜面を馬で駆け降りて、平家の陣地を攻めたとすれば、確かにとんでもない奇襲です。実際には逆落としの奇襲は行われていない、という説もあるそうですが、僕個人の意見としては、憧れでもあり、史実であって欲しいと思います。


神戸市須磨区 須磨浦公園 鉢伏山から降りるロープウェイからの景色

さて、義経の奇襲に慌てふためいた平家軍は海へと逃げだし、逃げ遅れた者は切られ、今、僕がのんびり散歩を楽しんでいる須磨浦公園は、多くの兵士達の血で染まっていたに違いありません。この付近では、毎年、決戦のあった2月7日の夜明けには、軍馬のいななく声が聞こえると言われています。


神戸市須磨区 須磨浦公園内の松林


神戸市須磨区 須磨浦公園内のある源平史蹟「戦の濱」

先に述べた様に、一ノ谷の合戦で命を落とした一人に、前回のコラムで紹介をした平敦盛がいます。近くの須磨寺には、平敦盛とその敦盛を討った熊谷直実の銅像があります。


神戸市須磨区 須磨寺境内にある平敦盛(左側)と熊谷直実(右側)の銅像


香川県高松市屋島寺近くの土産物屋「南山」に展示されている住吉派「一ノ谷合戦図」より 熊谷直実


同 平敦盛

海に逃げた敦盛でしたが、熊谷直実に呼び止められ、戻って戦い、そして首を切り落とされてしまいます。須磨寺境内には敦盛公墓所(首塚)があり、須磨浦公園の近く、国道2号線に面したところには、平敦盛の胴体を祀った五輪塔(胴塚)があります。首と胴の祀られている場所が分かれているということでも、首を切られたのだと実感させられます。
下の写真は五輪塔です。また、その敦盛塚の隣にはそば処「敦盛そば」があります。「敦盛」とそばの「熱盛」をかけているそうです。店の奥の建物の壁には、源氏の笹竜胆(ささりんどう)の白旗と平家の揚羽蝶(あげはちょう)の赤旗を模したものがありました。因みに、小学校の運動会で見られる紅白や紅白歌合戦の紅白は、紅白の旗を掲げた源平合戦が起源であると言われています。


神戸市須磨区 須磨浦公園近く国道2号線沿いにある、胴塚とされる敦盛塚(五輪塔)


敦盛塚隣にある そば処「敦盛そば」


源氏の笹竜胆の白旗と平家の揚羽蝶の赤旗

須磨寺付近には、敦盛がその若い命を散らした痕跡がたくさんありました。
須磨寺の大師堂の傍らには、敦盛の首を洗い清めたと言われる「敦盛首洗い池」があり、その後ろには、義経が腰を掛けて敦盛ら平家武将の首実検をしたという「義経腰掛の松」があります。そして、熊谷直実が戦いの前夜に嵐の中で聴いたとされる、敦盛の青葉の笛も、須磨寺で見ることができます。


神戸市須磨区 須磨寺境内内にある「敦盛首洗い池」(前方)と「義経腰掛の松」(後方)


神戸市須磨区 須磨寺境内内にある「青葉の笛」(右側)

「無残や花のつぼみさへ、須磨の嵐に散りにけり」
音楽に耳を傾け、実際に目で歴史の痕跡を見て、歌詞の内容がより実感できました。皆さんも、是非、足を運んでみてください。

ペコ丸(代筆:平山聡子)

※僕は、ペット同伴可の敷地内のみ入っており、入れない場所は飼い主に写真を任せています。

コラム③「敦盛を探せ」
コラム⑤旅コラム-《那須の語り》編-

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