コラム②「平清盛について」 | ペコ丸の古典芸能よもやま話
こんにちは。ペコ丸です。
今回は、源平芸能絵巻「赤と白と~時代を彩った其々の人間模様~」に因み、『平家物語』の主要人物である平清盛について紹介したいと思います。
平清盛は『平家物語』の「祇園精舎」の段で、「六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人」と、紹介されています。
京都の六波羅で生まれ育った武家の大将で、太政大臣という律令制度と呼ばれる体制における最高位の役職に就いたこともある、すごく偉い人です。この太政大臣は、それまで貴族しかなれなかったのに、武士で初めて役職についたのが平清盛なのです!因みに、清盛はその後出家してお坊さんになったため、六波羅の入道と呼ばれているのですね(下の写真の像もお坊さんの姿です)。
天下を掌握した清盛は、平家物語の中では、傲慢で傍若無人な人間として描かれています。それを表すエピソードには、以下のようなものがあります。
・祇王という白拍子を寵愛していたが、仏御前という若い白拍子(平安朝末に始まった男装の舞妓)が現れると心移りし祇王を屋敷から追い出した。
・髪をかぶろ(おかっぱ)にし赤い直垂を着せた14、5歳の童300人ほどを召し抱え、市中に放し、平家を悪くいうものがあれば捕らえ、家財を全て取り上げた。
・取り立ててくれた後白河法皇を幽閉した。
・都を平安京から福原(現在の神戸市中央区から兵庫区北部にあたり)に無理やり移した。
この様に、実にやりたい放題です。この清盛を頂点とした平氏一門の栄華と驕りを象徴する有名な言葉、「平氏にあらずんば人にあらず」というのも皆さん一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ですが、史実として伝えられている清盛には、次のような一面もあるのです。
事実上の鎖国状態だった日本で日宋貿易をはじめたり、大輪田泊を国際貿易港として発展させる為、私費を投じて波風よけの人工島の築造をしたりもしました。この築島工事は大風や大波で崩れ去るなどの難工事だったので、祟りなどを信じていた当時の人々は30人ほどの人柱を立てると決めたのですが、清盛は人柱という行為は罪業であるとして禁じ、「一切経」を表面に書いた石(経石)を廃船に積んで船ごと沈めることでその代わりとした、と言われています。
人柱を立てないという選択は今でこそ当たり前ですが、神仏を敬い、祟りを恐れるのが当たり前の平安時代に決断したことはとしてはあまりに常識はずれとも言えました。非常に国際的で先進的な視点を持ち、迷信を排し現実的な考えをする優れた政治家、そんな清盛像が目に浮かびませんか?
『平家物語』新春公演は栄華を誇った平氏一門が、その驕り高ぶりのために滅亡していく姿を描いた物語です。そして、その平家を滅ぼすのは宿敵源氏の嫡子源頼朝。頼朝は、平治の乱で処刑されていてもおかしくなかったのに、助命されて伊豆に流されるだけで済みます。このような人命を重んじる清盛の優しさが、当時としては判断の甘さとなり、平家の滅亡へとつながったのだとしたら…。平家物語の見方も少し変わってしまうかもしれませんね。
ペコ丸(代筆:平山聡子)