弁財天⑦ 江ノ島詣② | 滋賀県立文化産業交流会館
こんにちは。ペコ丸です。
さて、江ノ島の旅を続けていきたいと思います。
今日は、いよいよ妙音弁財天のおられる江島神社の奉安殿へ行ってみたいと思います。
江島神社には辺津宮・中津宮・奥津宮と3つの宮があり、奉安殿は一番初めの辺津宮にあります。ここには寛政8年(1796)とその翌年に奉納された2基の大きな石灯籠があり、奉納者として江戸小道具屋と刻まれています。芸能関係の人たちが、多く訪れていたのが伝わります。
残念ながら、奉安殿の中は写真が撮れないので、奉納されている様子が一番よくわかる、以下のサイトのURLをご紹介します。
江島弁財天_江島神社 https://www.odakyu-voice.jp/trip/2022_01_feature/#spot01(外部リンク)
そうなのです。ここには、二体の弁財天が祀られているのです。妙音弁財天は左側の裸弁財天(檜製 座像 像高一尺八寸)で、下に並んでいるのは十五王子です。そして、右側は竹生島にもおられる戦う女神像の八臂弁財天(檜製 施彩色 座像 像高一尺九寸)です。共に鎌倉時代の仏像ですが、弁財天の全く異なる姿の像がこの時代からあったというのは、やはり興味深いです。
さて、水が好きな弁財天のいたずらか、次の中津宮に来たところで急に雨が降りました。水が嫌いな僕のテンションは、大撃沈です。
僕の飼い主は、「わあ、音羽屋の手形だ。」と喜んでいましたが、僕の顔からは完全に笑顔が消えています。歌舞伎『弁天小僧菊之助』に縁のある音羽屋の七代目尾上菊五郎と五代目菊之助、手形の横には、江戸三座の一つといわれた市村座が奉納した石灯籠も見えます。
さて3つ目の宮である、奥津宮に来ました。ここには山田検校の銅像があります。
憧れの山田検校の像にたどり着き、僕の笑顔も戻りました。
山田検校は箏曲山田流の祖として有名ですが、ここに像があるは「江の島」という曲を作曲したからだと思われます。「江の島」の歌詞は、江ノ島の風景や、龍と弁財天の伝説である江ノ島縁起などから成り立っています。山田検校の処女作とも言われており、江ノ島の弁財天に願掛に参籠した際に作られたという口伝があります。口伝の真偽は定かではありませんが、山田検校を代表する作品の一つであることは間違いありません。芸能関係を支えた人たちがこぞって参拝した江ノ島は、いかに芸能の聖地であるかということが、実際に足を運んでよく分かりました。
最後に、今回のもう一つの目的である、552年(欣明天皇13年)に弁財天が十五童子を従えて現出し江ノ島を創造した際、欽明天皇が神を奉ったといわれる洞窟に行ってみたいと思います。洞窟は、第一岩屋と第二岩屋の2つあります。
552年以降、多くの高僧や武将がここを訪れて、祈願の為に籠ったとされています。建久3年(1190年)には、北条時政が子孫繁栄を願いこの地に参籠。満願の夜に弁財天が現れ、願いを聞き入れた後、龍となり鱗を3つ残していった話が『太平記』に書かれていますが、北条氏の家紋「三つ鱗」の由来の逸話として有名です。
江戸時代の江ノ島詣の目的地は、この岩屋(第一岩屋)だったそうです。洞窟の中は、当時、岩屋詣をした人が寄進した石像がたくさんありました。弁財天などの神々の像をはじめ様々なものがありましたが、弁財天に縁のある為か、とぐろを巻いた蛇の像が多かったです。
洞窟奥の江ノ島神社発祥とされる場所を拝んできました。洞窟の中は涼しく、常に頭上から雫が垂れ、地面も岩壁も濡れていました。現代では、コンクリートで整備された洞窟内を、照明に助けられながら安全にここまで詣でることができましたが、昔のように蝋燭や提灯の灯りのみで洞窟の中を進むことを考えると、五感が極限まで研ぎ澄まされるであろうことが容易に想像できます。波や生物や風の音、滴る冷たい水などによって研ぎ澄まされた感覚が、芸術家たちの想像力を搔き立てたのではないかと思います。
第二岩屋にも行ってきました。奥に進むと、厳しい龍の姿が見えてきました。中々の迫力ですが、目に見えない龍の方が、幾通りもの姿を自由に想像することができるので、僕たちをときには守ってくれ、またときにはよからぬ行いを叱り戒めてくれる、そんな大いなる存在として、より畏怖の念が感じられるように僕には思えました。でも、これも伝統芸能と同じですが、この龍の具体的な姿を見て怖いと感じ、この島に伝わってきた神々に興味を持つきっかけになるのだとも思うのでした。
これで、厳島神社と江ノ島神社を詣でることができました。
さあ、次は竹生島です。
また、お会いしましょう。
ペコ丸(代筆:平山聡子)