弁財天② 江島縁起と弁財天 | ペコ丸の古典芸能よもやま話
こんにちは。ペコ丸です。
「長栄座伝承会 むすひ」の第3部は、「相模江ノ島妙音弁財天と十五王子」をテーマした新作です。僕は、まだ江ノ島には行ったことがありません。そこで今回は、僕なりに本などを調べながら、まだ見ぬ妙音弁財天に思いをはせ、記事を書いてみたいと思います。
地名を指す時は「江ノ島」、神社・信仰を指す時は「江島」表記を使用しています。
今回は新作ということで、僕も観たことがない作品です。出演欄に天女、竜神とあるのを見て、おそらく「江島縁起」に基づいたものであると思いました。因みに縁起は仏教用語で、「江島縁起」とは江島の始まりという意味になります。この「江島縁起」については江島神社の公式HPに『五頭龍と天女様(弁天様)-江島縁起より-』http://enoshimajinja.or.jp/manga01/という漫画で分かりやすく紹介されているので、是非、読んでみてください。
さて、この伝説の内容については上のURLの漫画を見てもらうとして、面白いのは、龍が民を困らせていた地に天女(弁財天)が降りてきたとされる年が欽明天皇十三年と明確に記されていることです。これは、『日本書紀』に記されている仏教伝来の年と一致しているのです。これは偶然の一致ではなく、古来よりの江島信仰が仏教と習合して弁財天信仰となっていく過程で、日本書紀の仏教伝来の記述に合わせた伝説となったのでしょう。非常に興味深いです。
この「江島縁起」は多くの伝統芸能の題材になっています。今回の公演は新作ですが、能にも五頭龍と弁財天との縁起を基にした謡曲《江野島》があります。なお、江島縁起ではなく、江ノ島を題材にした作品や、江ノ島が登場する作品も、様々な伝統芸能の中に沢山存在しています。有名どころは河竹黙阿弥作「青砥稿花紅彩画」、通称「白浪五人男」ではないでしょうか。
江ノ島と関わりのある伝統芸能の作品において、室町時代から始まる能は、仏教の始まりを描く縁起物ですが、江戸時代以降の歌舞伎の演目「白浪五人男」の中では、江ノ島の寺の稚児から悪党になっていった弁天小僧菊之助が、寺の賽銭を盗んだり、江島参詣の宿泊者の財布を取ったりと悪事を働いていたことが、名台詞の中で語られます。時代とともに江ノ島も庶民の中の、身近な存在になったことの表れのように思います。
さて、現在、江島神社には2神の弁財天「八臂弁財天」と「妙音弁財天」が祀られていますが、江戸時代には、もっと沢山の弁財天が祀られていたようです。その頃は江島弁財天信仰が盛んで、江島詣が盛んに行われていました。江島を題材にした浮世絵が数百点になるというのですから、大変な人気スポットだったのでしょう。前回のコラムで書いたように、弁財天は音楽や言葉などの才能をもたらす神とされていた為、芸能関係者による信仰も厚かったようです。江島神社内の中津宮付近の石灯籠からは、江戸時代に市村座や中村座、能楽師や邦楽関係者から奉納されていたことが分かります。
今回の「長栄座伝承会 むすひ」第3部の「妙音弁財天」ですが、この弁財天は非常に変わった御姿をされています。裸で衣服を纏っておらず「裸弁財天」とも呼ばれています。このような裸形像は鎌倉時代に増え始めたようです。鎌倉時代的な写実精神にのっとり、裸形像に実際に布製の衣服を着せたという解釈や、仏像を単なる偶像としてではなく、生ある存在として崇める信仰をしていた可能性があるとのことです(奈良国立博物館HPより抜粋)。鶴岡八幡宮の木造弁財天座像も同様の鎌倉時代の裸形像ですが、こちらの弁財天は衣服を身に着けておられます。なぜ、江島の妙音弁財天は衣服を着ておらず裸のままなのかは、書籍を探して調べてみましたが、分かりませんでした。今回の公演が完結する3年後までには、是非、江ノ島まで行って、妙音弁財天にお参りすると共に、理由を探してみたいと思います。
最後に、江島には、今よりもたくさんの弁財天が祀られていたと述べましたが、明治政府の神仏分離政策の対象となり、多くの弁財天像が破棄、流失される運命にあったようです。ですが、流失された一体が滋賀県にある可能性があることが分かりました。
MIHO MUSEUM所蔵の「八臂弁才天坐像」が収められていた木箱蓋面に、江島から流失した可能性が考えられる、今はない江島の寺の名前が記載されているそうです。
MIHO MUSEUMに問い合わせたところ、伝承のようなもので確証はなく、また常設展示もされていないそうですが、夢があって素敵だと思います。
現在、江島神社で祀られている妙音弁財天とは、また異なる御姿の弁財天だと思いますが、滋賀県にて江島参詣をしたいものです。
ペコ丸(代筆:平山聡子)